<対談>  ロバート キャンベルさん

2021.11.17

<対談> ロバート キャンベルさん

日本文学研究者・ロバート キャンベルさんが語る、
江戸時代の文献にみる子どもの理想の学びの姿

*この対談は、2021年11月に公開されたものを再掲載しています

今回は、日本文学研究者のロバート キャンベルさんをお迎えしました。日本文学の研究と教育に長年取り組んでこられたキャンベルさんは、江戸時代やそれ以前の文献資料には、今の時代にも応用できるさまざま情報や知恵がたくさん詰まっているといいます。今回の対談では、200年前、500年前の人々が子どもの学びにどういう風に向き合っていたか、江戸時代の文献から浮き上がってくるいきいきとした子どもの学びの姿や、子どもたちの人生を豊かにするための体験としての「日本語」について語っていただきました。対談は2021年10月にオープンした、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)にて行われました。

Photo : Yoshihiro Miyagawa

ロバート キャンベル(Robert Campbell)

ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。早稲田大学特命教授。早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問。国文学研究資料館前館長。カリフォルニア大学バークレー校卒業(B.A. 1981年)。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了、文学博士(M.A. 1984, Ph.D. 1992年)。1985年に九州大学文学部研究生として来日。同学部専任講師(1987年、国語国文学研究室)、国立・国文学研究資料館助教授(1995年)を経て、2000年に東京大学大学院総合文化研究科助教授に就任(比較文学比較文化コース〔大学院〕、学際日本文化論〔教養学部後期課程〕、国文・漢文学部会(同学部前期課程)担当)。2007から同研究科教授。2017年4月に国文学研究資料館館長就任。2021年4月から現職。近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の漢文学と、それに繋がる文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組企画・出演など、さまざまなメディアで活躍中。

三枝:この度は、村上春樹ライブラリーの開館おめでとうございます。館内を拝見して、さっそく知的好奇心が刺激されました。とくに階段本棚の、大きな本屋さんや図書館では体験できない「分類」が、とても興味深かったです。

 

キャンベルさん(以下敬称略):あの本棚は、村上春樹さんが注目する現代作家が選んだ「現在から未来に繋ぎたい世界文学作品」など、階段の左右で多様なテーマが展開されていています。ここは、「物語を拓こう、心を語ろう」というコンセプトを基に開館されました。物語を紐解くことを「ひらく」と言っていますが、開拓の「拓く」を使っています。それぞれのストーリーを「切りひらく」。世界の文学や、50カ国以上の言語に翻訳されている村上文学から広がっていく読み物の世界をひとつの核にして、文化的な研究や交流をしようとしています。

 

三枝:早稲田の学生が羨ましくなりました。出来る事なら大学生に生まれ変わって、この環境で学び直してみたいものです(笑)。

さて、今日は、日本文学研究者であるキャンベルさんに、子どもたちの人生を豊かにするための体験としての「日本語」についてお話を伺いたいと思っています。
ますます早期化してきた英語教育の状況をみていると、多少の危機感を覚えます。英語教育ももちろん必要ですが、せっかく美しい言葉を持つ日本に生まれたのですから、幼少期のうちに母国語の大切さや、日本語の魅力を知ることはそれ以上にとても大切なのではないかと思うからです。
まずは、キャンベルさんが今取り組まれていることについて、お聞かせいただけますか?

キャンベル:私はこの国際文学館で、ここを世界的な文学研究センターにしていくというミッションと同時に、もう一つ、研究にも影響を及ぼすような社会連携をしていきたいと考えています。分節でなく、できるだけ合流地点として、あるものを活かしていこうと思っています。例えば、ここで行われる朗読イベント「Authors Alive! ~作家に会おう~」などの場は、研究の成果としてある書物などを、研究者ではない、学生ではない人にも違う形で引き受けられる環境となりますし、また、これを研究者たちにも経験してもらうといった環境をつくりたいのです。研究者がその場に立ち会うことは、自分の研究がどういう潜在的な力になりうるのかということを知る機会になります。ひょっとして自分の研究の方向性ということが10度でも変われば、かなり違うものになると思うんです。日本文学研究は学科として、どんどん無くなっていっているわけですから、そういうことに可能性を見つけたい。

 

三枝:そうですね。どんどん垣根を超えていかなければいけない時代ですし、実際、そうなって来ているとも思います。

 

キャンベル:そして、原資料の読解をきちんとすることが出来、時代のことに精通していて、かつ、広い視野、できるだけ森が見える人材を育てるということを目指しています。

私は、近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の文学の研究をしていますが、古典、江戸時代の資料からはさまざまな学びが得られます。
日本の中だけではなくて、海外においてもアクセスをしてもらう事で、さまざまな社会の課題を考える道標になることもありますし、解決の糸口やヒントが得られることがあります。
私が2017年から4年間館長を務めた国文学研究資料館には、数十万点の、江戸時代以前に作られた本や記録史料、また前世代、世界の日本文学の研究者たちによるとてもたくさんの研究データが保有されています。私はそこで、「文学」を文化資源、マテリアルとして考えた時に、単なる冷たい情報としてだけでなく、一冊一冊の風合いや手垢など、情報化デジタル化していくと網の目から溢れてしまうことも含めて、そこに刻印されているものを科学的に捉え、素材としてどう活用できるかを、多くの他分野の人たちと共同で研究しながら考えてきました。
例えば、本にはたくさんの遺伝子が残されています。分析解析することによって、それを読んでいた人たちが何を食べていたかとか、いろんなことが見えてくるのですよ。

 

三枝:そんな事まで解析出来るのですね。それは興味深いです。

キャンベル:日本の古い文献の特色のひとつに、挿絵がとても多いということがあります。江戸時代、あるいは平安時代まで遡って見ても、日本人はさまざまなものを学ぶ時に、文字だけではなくて同時に絵をみて、学びを共有していたという文化がありました。中国や朝鮮半島など他の漢字文化圏、あるいはヨーロッパと比べても、文献の中の絵の比率が抜群に多いんです。国文学研究資料館では、その挿絵を高解像度の画像としてデータ化しました。例えば、これらの絵のひとつひとつにたくさんの言葉をタグ付けていますので、「犬」をデータベースで検索すると、おそらく300匹くらいの犬を見つけることが可能です。

さらに今、言葉を介在せずに絵で絵を検索するという技術を開発しようとしています。と、いうことは、世界中の人々が言葉とは関係なく国を超えて、絵として直感的にアクセスすることが出来るようになります。例えば、昔の遊郭では「吸い付け煙草」というのがあったのですが、遊女が火をつけて相手に差し出すその肢体の動き、姿勢の絵を入れると、それに非常に似た絵図をAI学習データから探し出してくれる。昔に倣って建造物を作りたい時に、橋の擬宝珠や障子紙、襖など絵の一部を入れて検索すると、文献に描かれた当時の「本物」が見つかるシステムです。これはまだ公開はされていませんけれども、完成が楽しみです。

 

三枝:面白い!そういった日本の古典の絵も含めた文学というものを、今回の感染症のように、歴史の中で繰り返されてきた社会問題の解決や希望に結びつけるということも考えておられるのでしょうか?

 

キャンベル:その通りです。天文学者など多様な分野の研究者と共同研究を行なったり、いろいろなことをしています。
日本では、中国から漢字が渡ってきて文字の使用が始まって以来、とても沢山のことを観察し記録をしてきています。イギリスのように、ほとんどの国が歴史上のどこかで言語が置き替わりましたが、この国の言語は一度も取って変わられることはなかった。領土を奪われることもなかった。ですから、ずっと途絶える事なく記録が続けられて来ました。様々な記録が稠密に残されています。例えば、日本の19世紀以前の地震「古地震」の記録は、今の地震学を研究する上で非常に重要なデータです。
18世紀くらいまでは、日本でも低緯度オーロラが見えていたことが記録からわかっています。江戸時代にも、名古屋あたりの侍が絵を描いていますよ。

 

三枝:え!オーロラが日本でもみられたんですか?

 

キャンベル:ええ。13世紀はじめに書かれた藤原定家の『明月記』(*)、国宝として現物が残っているのですけれども、その中に「赤気(せっき)」という記述があります。小倉山荘あたりから北の山が燃えるような禍々しいその風景が毎晩繰り返されており、この世の終わりなのではないかと。末法思想の時代でしたので、その色合いや様子から、何か恐ろしいものや不吉な前兆としてとらえられていたのかもしれません。その「赤気」というのが何なのかずっとわからなかったのですが、数年前に天文学者たちと一緒に研究することによって、実はそれはオーロラだったことが解明されたのです。
気象の記録は古典文献に非常によく残っています。稠密な気象情報が、日記という形で書かれていたんですね。古の貴族も近代の軍人も皆、日記はお天気から書き始めているんです。

感染症に関しては、今年の3月に『日本古典と感染症』という本を出しましたけれども、特にこの一年で研究が進みました。1918年、1919年のスペイン風邪ではとても多くの人たちが犠牲になりましたが、戦争、第一次世界大戦と違ってインフラが壊されたわけではないし、そこで倒れて亡くなった人たちは英雄視されなかったわけですね。感染症で亡くなった人たちのストーリーや記憶ということが非常に残りにくかった。しかし、日本においては、感染症というものが日本の古典文学のありとあらゆるところに残っています。
(*)平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・藤原定家が、当時の貴族の暮らしぶりを克明に綴った漢文日記

 

三枝:記録があるんですね。

キャンベル:記録もありますし、例えば、そこで欠けてしまった命が、欠損したものとして文学に書かれていたり、何か大切な人やモノの喪失がきっかけで物語が書かれたり、唄が交わされたりするということがとても多いのです。絶滅してしまった動植物などもそこからわかることがあります。

 

三枝:今、キャンベルさんのお話を聞いていて、植民地になると言語が変わってしまうわけですが、日本はそういうことがなかった稀有な国だった、そういう環境で「日本語」は研ぎ澄まされ、変化しながら引き継がれたものとしてある。するとやはり、日本語のもつ素晴らしさは、出来るだけ幼いうちに体験するのが大事じゃないかと改めて感じました。キャンベルさんからみてどのように思われますか?

 

キャンベル:そうですね。例えば、明治前半くらい、それぞれの地域に知識であるとか感性というものが江戸時代のまま息づいていて、色々な意味でまだ「江戸」だった時代、標準化された公教育である「国語」という言葉の概念がない時代の資料を、私はいつも泳ぎながら、溺れながら読んでいるわけですが(笑)、一言で言うと楽しいです。

その頃の子どもたちは、「四書五経』などの古典、往来物や消息文などの、優れた手で描かれた優れた文章を、声を出して読み、同時になぞりながら学ぶことをしていました。「素読」と言いますが、みんなで一緒に声に出して読みながら、文章を少しずつ読めるようにしていく。子どもたちが実際に使っていた子ども用の往来物ですとか、読み物を見ても、非常に生き生きしているんですね。

いくつかもってきました。ここにあるものは全部、子ども向けに江戸で出版された書物です。でも、教科書という言い方はしません。

三枝:わあ。貴重な資料をありがとうございます!これを使って子どもたちが学んでいたのですね。私たちは子どもたちに、幼児期のうちに少しでも多くの本物の体験をさせてあげることが、すごく重要なことだと考えていています。それを「言葉」ということで考えた時に、日本語のどの部分の何をどう伝えていったらいいのかということを悩んでいるわけです。

 

キャンベル:いま、「アクティブ ラーンニング」ということが新しい学習指導要領の大きな柱になっているわけですが、私がこういうものを見ていて思うのは、子どもたちの学びがすごくインターアクティブ(双方向)だという事です。江戸時代の資料を見ていくと、蔵書印や書き込みから子どもではない人たちも読んだりしていたことがわかってきます。これらはすべて音読されることが前提として書かれています。

 

三枝:黙読はしないのですね。

 

キャンベル:基本的に黙読はしないのです。幕末の日本にやってきた外国人の旅行記で一番強調されていたのは、どこの村を通っても、何かお経を唱えているような音がすると。でも実はそれはお経ではなくて、例えば、番頭さんがお客さんのいないところで本を読み上げて、奉公人たちに面白い話を聞かせていたと。そんな光景がいたるところであったという事なんです。「読み聞かせ」という言い方を私たちはするけれども、江戸時代にはそういう言い方なくて、それは「読む」でした。

 

三枝:今とは、「読む」の概念が違ったのですね。体に取り込む感じがしますね。

 

キャンベル:なので、ここにある本は、まず前提として「声」があるんですね。誰かがこの本を読んでいる時は別の誰かがそれを聞いて、共有している。孫が読むのをおばあちゃんが内職をしながら聞いているとか。

 

三枝:SNSの時代と比較をした時に、それは大きな違いですね。
他の誰かが音を出して読んだものを耳で聞いて共有し、理解をしたうえでその言葉を実践するのと、書いてある文字を見ただけで意味を理解するというのは、実は全然違うことですよね。

 

キャンベル:はい。音があって、音声があって、そして、基本的には、その音声に乗りやすいように七五調などで文体がつくられているのです。七五調は、誦じやすく記憶に向いている。昔は、本がそんなにふんだんにあるとは限らないので、貸本屋さんを利用していました。10日間くらい借りて、何度もそれを読み返しているうちに、覚えてしまうわけです。

ここにもう一冊『太平江戸往来』という本がありますが、「往来物」といって、これも子どもたちが読み書きを学ぶためのものです。江戸のいろいろな地名を読み込んだ文章が書いてあります。季節の言葉が最初にあって、手紙の書き方も分かります。全てに総ルビが振ってあって、識字能力が高くない人でも、取りこぼしなく読めるようになっています。

 

三枝:お寺で聞くお経も一定のリズムがありますね。この往来物も、そういう感じで読まれていたんでしょうか?

 

キャンベル:そうですね。みんなが一緒に読んでいけるように。

 

三枝:だから、音の数も歌詞のように合わせていたりして、覚えられるようになっている。

 

キャンベル:欄外にはそれぞれの町についての豆知識や行事などが書かれています。絵もふんだんです。これは江戸から見える景色ですね。ここには中国風の古代の人たちが集まっていますね。この蓬莱は縁起のいい絵柄なのですけれども。こういうふうに、子どもたちが楽しみながらすっと入っていけるような工夫があります。大人になって社会生活を送る上で大切な、基本的で教育的なインフラがここから習得できるのですけれど、けしてこれは試験のために正解を覚える教科書ではないですね。

 

三枝:もっと根本的なことを学ぶための本なのでしょうね。

キャンベル:それから、この長襦袢、江戸の地図になっています。この元となった古地図は18世紀の終わりに、江戸の本屋さん西村屋与八という版元によって作られたわけですが、実はこの子ども向けの本も、同じ出版元なんです。ほら、地本問屋西村屋とありますね。「地本(じほん)」というのは、古典のような真面目な「物の本(もののほん)」とは別に、地元のもっと通俗的なものをつくる本屋さんです。地本問屋の自主的な組織が江戸にあって、その人たちの一員である西村屋という人が、江戸の絵図を作り、そして子どもの役に立つ書物も作っていました。ですから、地域文化が非常に重要視されているのです。

 

三枝:子ども用でも、何が書いてあるのか・・・読めないです(笑)。キャンベルさん助けてください。

 

キャンベル: これは、御用聞きにいくために地名を覚えなければいけない商人の子どもたちが読むことを前提としたものです。子どもには大きくて細かい絵図を示しても理解できないので、リズムにのってまずは地名を覚える。そして、書き方のお手本になる、書きながら覚えていくわけです。まずはお城があって、東には和田倉、いまのパレスホテルですね、八重洲、呉服橋、日本橋などなど。江戸の街名を、リズムをつけて覚えられるようになっているんですね。サヱグサさんが所蔵されている『江戸名所図会』とほぼ同じ順で地名が出てきますよ。

 

三枝:子どもたちはこれを音読することで、江戸という街の全体像を学んだんですね。リズムやイメージで覚えやすい工夫がしてある。
私たちも、今の時代の音読本を、子どもたちのために作りませんか。

 

キャンベル:それは、いいですね。

 

三枝:今の子どもたちに必要な、本当に基本のことを声にだして読むための本です。今、子どもたちが小さい時に遊びながら読んで覚えた方がいいことって何でしょうね。

 

キャンベル:そうですね、あんまり教訓みたいなものではなくて。この本も道徳臭が全然ないですものね。非常にプラティカルなもの。

面白いのが、福沢諭吉がこの文脈をよく知っていて、明治2年に『世界国尽(せかいくにづくし)』という大ベストセラーを書いて、明治五年から小学校の教科書として使われたのですが、これが全く同じなんです。五大州の地理を、口誦しやすい七五調の本文と、各国の国情を説明する解説文と挿絵で書いているんですね。世界のいろいろな民族の姿が描れていたりして、世界地理、文化地理学がわかる。江戸時代の往来物をまねして、児童にも理解できるよう配慮されていました。ですから福沢諭吉の啓蒙というのは、子どもたちの情操ですとか、教育、技能をどういうふうに身につけたらいいかということを知り尽くして行われていたのですね。スクラップ&ビルドで新しいものをつくるのではないんです。

三枝:音読というのも、音を合わせながらという意味では作曲みたいなものかもしれませんね。最近は、日本語を上手に音に乗せて操る若いアーティストやクリエーターが増えてきたように思います。宇多田ヒカルさんなどは、日本語を綺麗に面白く使う人ですね。

 

キャンベル:はい、そう思います。宇多田さんは、やっぱりバイリンガルだからこそかもしれませんね。海外で活動されている小説家の多和田葉子さんなども、日本語を作ってしまうと言いますか、遊び倒すところに深みを掴むというところが非常に面白いです。これは、子供たちが読んでいるところの挿絵です。

 

三枝:面白い。子どもたちが生き生きとしてますね。
どうしても今は、小さい時から、点数を取るという目的のものばかりに囲まれてしまう状況ですね。

 

キャンベル:いい所に就職するために逆算していく教育ですね。

 

三枝:私たちは、もっとこう、人としての基本的な部分を、小さい時に伝えてあげたい、感じてもらいたいと思っています。子どもたちのために役に立ちたいのだけれど、どういうことができるだろうかと今一生懸命考えているんです。

 

キャンベル:私も、子ども関連のお仕事としては、一昨年福音館さんに頼まれて、5冊の絵本を英訳しました。大変好評で、もう5冊引き受けたところです。それから、海外で非常に注目されているアメリカの絵本『Pink Is for Boys』を日本語に翻訳しまして、この11月に『ピンクはおとこのこのいろ』として発売されました。村上春樹さんも『おおきな木』など、いくつかの絵本を翻訳していますけれども、絵本を翻訳する作業というのはすごく面白いです。
次にそれをどうやって使おうかと考えていて、ここで絵本教室を開いて、みんなで読み合ったりということが出来たらいいな、などと考えています。
「不登校新聞」をご存じですか?その編集長と知り合いで、いろんなことを一緒にやっているのですけれど、例えば、子どもたちを集めてブッククラブみたいなことをやったりすることが出来ないかとか。

 

三枝:それは素敵ですね!
私が食に携わる方々とお話をしていて、皆さんと共有しているのは、例えば、日本のお味噌汁には、本物の出汁をとった味と、化学調味料の出汁の味とがある。となると、やはり小さい時にまず、正しい味をしっかり覚えて欲しい。大人になって忙しい時に化学調味料を使うならいいけれど、それしか知らないのはだめですね。ということ。
「言葉」にも同じようなことが言えるのではないでしょうか?どんどん変わっていく実感がありますが、言葉にも本物とか原点という発想はあるのでしょうか?

キャンベル:ああ、それはとっても大事なことだと思います。さっき、三枝さんが、「言葉は研ぎ澄まされ、変化していく」とおっしゃったのですが、私たちは、言葉というのはあまり「研ぎ澄ます」対象としては考えないです。それは、ほんとに、大きな川のように流れていて、さまざまな要因があって、時代、時間の中で変容していくものなのです。「正しい日本語」とか、「いい日本語」とか「悪い日本語」というふうにも、あんまり考えません。言語学者たちが死守しているひとつの考えかもしれないけれど、私はどちらかというと、今の若い人たちがSNSなどで使っている言葉にも優れた面白いものもあると思っているのです。例えば、「親ガチャ」という言葉がすごく流行っているのですが、悲しい言葉だけれども、

 

三枝:「親ガチャ」?

 

キャンベル:「ガチャ」はおもちゃ売り場にある、あのガチャガチャです。「自分は恵まれていない。格差社会の中で、自分の親がもう少しましな親であればよかったんだけど」という時に、「親ガチャに敗れた」とか言います。親は自分で選べないからガチャガチャと同じだという意味で使われているのですけれど、それに対して、「ちょっと待って、いやそれは自分の責任もあるんじゃないかな」とか思ったりもするのだけれど、でも非常にひらめきがあるといいますか、使い方が面白い。たまに、そういうふうな言葉に出会います。
私がお慕いしている内館牧子さんのように「使い方がなっていない!」と怒る方もいらっしゃいますが、私は、「まあ、まあ。言葉って、そういうものなのでは。」という風に思うのです。

とはいえ、淘汰されていないと言いますか、渚の石のようにずっと長い海の流れをたゆたいながらも、その力を持ち続けて残っている言葉や作品、それを私たちは「古典」と呼んだりしますけれども、そこには変わらない、いつの時代になっても、言葉としての喚起力や人の心に訴求する力があると思うのです。
それらの言葉の豊かさに、若い時から触れ、それについて話し合える環境にいるということが、とても大切なことだと私は思いますし、実際にそれは、教育学や児童心理学などの研究で立証されているわけですね。
断定文だけではなくて、「例えば」とか「昔々こういうことがあった」という、重層的な、時代やリアル・アンリアルが混ざっている語り方が飛び交っているような、豊かな言語環境が子供の周りにあることが重要だと思います。

 

三枝:そうですよね。言葉の使い方の変化というのは、祖父母の時代から私の子の時代までそれぞれが「おかしいぞ」って思っても、そういうのは時代の繰り返しですし、価値観も違う。ですから、よほど酷いものでなければ、何が正しいかなんてことはもう見出せないのでしょうね。
では、子どもたちには日本語のどういうことに気づいてもらったらいいのでしょう?

キャンベル:日本語の魅力のひとつは、色味ですとか五感に関する言葉を思い出してもわかるように、表現のバリエーションがとても多いことです。オノマトペも、おそらく世界一位二位を争う多さです。オノマトペは考えることを回避するためのデバイスでもあるので、オノマトペばかりを使っていると論理思考が育たないというふうに言われますけれども、擬音語とか擬態語でいうものは、私たちが物事を感覚器官で捕まえる、掴めることができる、いろんな事象に肉薄するためには非常に優れたものです。
それから、日本語ではひとつひとつのものに対する言い換えがたくさん出来ます。ですから、いいと思ったものを評価する時に、「やばい」「すごい」「かわいい」っていう風に片付けないで(笑)、表現をもう一つ、例えば、石を削る時に面取りをするように、違う角度から捉えられるようになってもらいたいですね。

そのためには、どこかのある年齢から言葉に自覚的になることが必要になると思うのです。
宇多田ヒカルさんも多和田葉子さんもそうだったと思いますし、英語で話す私もそうです。日本語の中に生きていると、英語に切り替わる時に、ん?ってなる。空気のように英語を使っている時には、気づかない凹凸感がある。木材で「浮造り(うづくり)」というのがありますよね。一枚板に刈萱(かるかや)を干して束ねた道具を使って柔らかい部分を削ぎ落としていくと、木目の凸凹が出てくるんですね。そういうことが、外国語に接する時に起こります。そこに没入していると、日本語の、これがなんか面白いなとか、こういう表現をするとニュアンスが変わる、そしてそのニュアンスが伝わる相手かどうか、ということも見えてきます。

実は、言葉をいろんな角度から立体的に運用できる能力は、人とのふれあいの中ですごく重要になってきます。私も、自分が使った言葉がどういう風にリバウンドしてくるかということ、相手がどういう風に理解したとか、リアクションしたとか、しなかったか、ということを見ているわけですね。「言葉」は「測られる」ものだということをいつも意識しています。私たちは呼吸をするように言葉を使うわけですから。でも、意識してばかりいると、発想が生まれないし、転んで怪我をすることもあるかもしれないので気をつけないといけませんが(笑)。

 

三枝:すごくよくわかります。言葉のもっとも重要な部分だと思います。
「どこかのある年齢から言葉に自覚的になることが必要」というのは、だいたい何歳くらいなのでしょう?

 

キャンベル:それは、年齢じゃないかもしれないですね。きっかけということがあるのだと思います。私自身のことを振り返るとちょうど思春期の入り口の頃でした。私が13歳の時、母がユダヤ人の男性と再婚しました。それまではアイルランド系の人にほとんど100%包まれた、単一的な言語環境に置かれていたのですが、その人が持ち込んできたボディブロウのような風をきっかけに、自分がこういう言葉を使いたいとか、文章を書くことがちょっと面白いかもねと思った。それは私にとってはイベントでしたね。人生の大きなイベントがあって、そういう風になったと思います。

三枝:最後に、もし、江戸時代の古典文学から学べる、子育てのヒントみたいなものがあれば教えていただきたいです。

 

キャンベル:江戸時代には大人が読む絵本がたくさんあるのですが、私がそれをすごく好きな理由は、「平和」だということ。変に目を逸らして綺麗事でかためたような平和ではなく、そこには、「血みどろな喧嘩をしないでどうやって生きていくか」という知恵がたくさんあるような気がするんですね。単に対立を回避するだけでなくて、いかに協働していくかという、ポジティブな知恵や感性、場面、シチュエーションがものすごくたくさん書かれています。コレラが流行した時には、本当にまじまじとそれを見つめている。目を背けない。惨状がそこにあるわけですけれども、それに健気に向き合っている人々の様子がとても自然に描かれているというのも、私はいいなあと思うのです。

それから、今の人たちがよく使うマウンティングというのが基本的にないですね。町人は町人、武家は武家というそれぞれの分際、それぞれの身分というものが保証されていて、かつ、意欲や能力によって、その中でかなり伸び縮みが出来る状況があったから。一方、18世紀、19世紀イギリスのジェイン・オースティンなどの文学を読むと、みんなとにかく、貴族社会のがんじがらめのマウントの話ばかり(笑)。もちろん江戸にもお家騒動はあるけれど、ちょっと違うんです。私は、そういう江戸の「平和」に出会って欲しいなあと思います。

 

三枝:コレラとも喧嘩をしない。今にこそ必要な、良い学びがありそうですね。そのような文学と、まずはどういうところから出会っていったらいいのでしょう?

 

キャンベル:今は古典文学も現代語訳がかなりなされています。『東京百年物語』など面白いアンソロジー(選集)がありますので、ちょっとしたものからお子さんと一緒に読みさしをするということもしてみて欲しいです。

それから、お子さんたちにぜひ伝えたいことは、一人で読んで、自分の部屋でこもって黙読するのもいいけれど、お気に入りの場所に本を持ち込んで、友達と経験を共有して欲しい。違う本を読んでもいいので、帰る道すがら、ちょっとだけ、ひとつだけでもエピソードや心に残った言葉を交換することしてみてもらいたい。そういうシチュエーションが、継続的にあればいいなと思います。電子空間にはいくつもありますけれど、今は、やっぱりリアルで交換できるということが少し足りないですね。

 

三枝:人と経験を交換するということがとても大切ということ、よくわかります。江戸時代みたいにお友達と一緒に音読してもいいですね。まだまだお聞きしたいことがたくさんありますがお時間が来てしまいました。
今日はたくさん勉強になりました。ありがとうございました!

◎ロバート キャンベルさん 書籍のご紹介

『ピンクはおとこのこのいろ』KADOKAWA

シンプルでやさしい多様性の絵本。
ピンクは女の子の色?男の子の色?いいえ、すべての色はすべての人のもの。

好き嫌いは、あって当たり前だけれど、最初から人に「それ、好きになっちゃダメでしょ」とか言われるのはどうかなと思う。好きになったらとことん好き!好きなものはお友だちにもシェアしてあげたい。いろんな色で遊び、自分に取り込み、時々取り替えっこすることほど楽しいことはないでしょ。大きくなって、みんなのパレットが広がっていけばいいなと思いながら、この本を翻訳してみました。色があって、生きることって、素敵だね。
ー日本文学研究者 ロバート キャンベル(KADOKAWA HPより)

 

 

『東京百年物語』(全3冊) 岩波文庫

明治維新から高度経済成長期までの100年間に生まれた、「東京」を舞台とする文学作品を時代順に配するアンソロジー。社会制度、文化、世相・風俗などの変遷を浮かび上がらせ、「東京」という都市の時空間を再構成する。(岩波書店 HPより)
第1分冊には、北村透谷、樋口一葉、川上眉山、泉鏡花、正岡子規、国木田独歩ほか、第2分冊には、谷崎潤一郎、川端康成、佐藤春夫、江戸川乱歩、堀辰雄、岡本かの子ほか、第3分冊には、太宰治、林芙美子、中野重治、安岡章太郎、三島由紀夫、吉本隆明ほかの作品が収録されています。

 

東京百年物語1 一八六八~一九〇九 東京百年物語2 一九一〇~一九四〇 東京百年物語3 一九四一~一九六七