<対談> 幅 允孝さん

2020.12.16

<対談> 幅 允孝さん

ブックディレクターの幅允孝さんが語る
「本が子どもたちにとって良き体験となることについて」

今回のトークゲストは、ブックディレクターの幅允孝さんです。
幅さんは、旧SAYEGUSAの店舗で展開していた小さな本屋「grow with books」で、子どもたちに「良き本」を提案していただいたパートナー。子どもにとって「本」とはどういう役割を果たす可能性を秘めているのか?また、我々大人は、どんな風に子どもに本を差し出すのが理想的なのか?などなど、お話を伺いました。

*この対談は、2020年12月に公開されたものを再掲載・情報更新しています

Photo : Yoshihiro Miyagawa

幅允孝(はば・よしたか)

BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。1976年生まれ。人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、学校、ホテル、オフィスなど様々な場所でライブラリーの制作をしている。安藤忠雄氏が設計・建築し、市に寄贈したこどものための図書文化施設「こども本の森 中之島」(2020年7月開館)では、クリエイティブ・ディレクションを担当。「早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)」(2021年10月開館)での選書・配架、札幌市図書・情報館の立ち上げや、ロンドン・サンパウロ・ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなど。2023年京都に、私設図書室と喫茶「鈍考donkou/喫茶 芳 Kissa Fang」をオープン。

三枝(以下S):コロナ禍でも、幅さんのお名前は色々なところでお聞きしていました。お忙しい毎日をお過ごしのようですが、幅さんがお忙しいということは、日本全国で本や選書のニーズがあるということですよね。それってやっぱり、最近のムーブメントがあるということなのでしょうか?

幅さん(以下H):はい。あると思います。

S : それは皆の意識が変わったということ?世の中的にはデジタルですよね。そんな中でも「リアルな良さもあるよね」というのがあるのは、もちろんわかっているのだけど、具体的なムーブメントとして、本コーナーを設ける施設が増えたり、新しいコンセプトの図書館が誕生したりとか、「本」の需要が増えているのは何故なんでしょう?

H : そう。意識が変わったんですね。どうしてだと思います?
コロナ禍になって、少しずつですが本が売れるようになったのです。今、『鬼滅の刃』だけではなく、全般的に本が売れています。

S : 在宅時間が伸びたのと、ライフスタイルが変わって本を読む時間ができたということもあるのでしょうか?

H : それもあると思います。でも一番大きいのは、「責任の所在」がはっきりした情報を掴みたいという欲求なのだと思います。

S : 本の良さは「責任の所在があること」って、前々からおっしゃっていましたね。

H : やっぱりこれだけソーシャルメディアで信憑性の不確かな匿名の情報が溢れた状況になると。著者名がちゃんと書いてある本には責任の所在がはっきりしていますし、何冊か読めば、自分の意見というものを作り上げる事が出来る。もうひとつは、皆さんこの時期、サブスクチャンネルを見ていましたよね。

S : 私も見ていました!

H : あれって、自分でなかなか時間を牛耳れないっていうところがあるんですよね。延々と見続けてしまうのだけど、それは結局、ずっと受動の状態です。本の良いところは、読んでいて「あれっ」とか「あっ!」って、心にひっかかる部分があったら、ちょっと止まって考えることが出来る。自分っていうものがちゃんと介在して、考えたり立ち戻ったり出来るんですが、残念ながら、受動の状態ばかりが続くサブスクは、人間の主体を削いでしまう。

S : わかる気がします。娘の影響で韓国ドラマとかにハマって、ついずっと見ていましたけど、確かに削がれました(笑)。

H : ぼーっとしちゃいますでしょ?自分で自分の時間を牛耳れていない状態に慣れ過ぎてしまうとちょっと危険なところがあると思うんです。一方で、本は自分で時間をコントロールできる。それに気づいた人がかなりの数いたんじゃないかなと。「責任の所在」への要求と合わさって、今の「本」へのニーズになった。
もっと言えば、今の時代、「価値転換」というようなものが猛烈に押し寄せてきていて、今まで素早く、能率良く、効率よくというようなものを良しとしていたのだけれども、ちょっと違う軸みたいなものを自分の中にちゃんとつくらなきゃいけない、という生命としての危機感というかそういうものも皆が感じているのかも。

S : なるほど、子どもたちも同じでしょうか? けっこう家で本を読むようになってきている?

H:そうですね。例えば、僕がクリエイティブ・ディレクターを務めた大阪の「こども本の森 中之島」(2020年7月5日オープン)。ここは、1日の入場者900人の予定が、感染防止対策ということで300人に絞っていて、入場無料ということもあるとは思いますが、先2週間分のネット予約がものの15分くらいですぐに埋まってしまう。平日も常に予約でいっぱいだそうです。

リピーターも非常に多いと聞きます。安藤忠雄さんの建築・寄贈による魅力的な施設ですが、本しかない場所にあれだけの人が来てくれている。しかもこのコロナ禍にもかかわらずです。これはとても興味深い現象というか、すごいことですよね。

S : それはすごいです。子どもたちが確実に本を求めているという証拠ですね。
さて、幅さんには、これからも引き続き「grow with books」というキャッチのもとに、子ども達に「良き本」を提供するお手伝いをしていただきたいと思っています。そんな中で、本のスペシャリストとして、サヱグサをよく知る人として、これからのサヱグサが提供すべき「本」のあり方、必要性などを、幅さんの目から見てどういう風にお考えになっているかとか、こんなことが出来たらいいんじゃないかなっていうお話も伺えますか?

H:まず、子どもにとっての本の重要性は今、確実に増しているのではないでしょうか。なぜかと言うと、今は、ソーシャルメディアの磁場が本当に強いので、都合の良い情報だけが集まってくるような、見たくないものは見なくてよいという状態になっています。子どもがそういうものに流され続けた上で抱く意見と、ちゃんと自分で体験も含めて掴みにいって確立した自分の意見は、あきらかに種類が違います。
子どものうちに、自分の意見は自分で作るという癖をちゃんと意識的に確立していかないといけないと思います。そんな時に役立つのが「本」なのです。

大人には大切な役割があって、答えを与えるのではなく、ちゃんと考えるための土壌を整えるとか、種のまき方を教えるとか、種の種類はこんなにあるんだよと教える。それがキーポイントになります。

例えば、ジェンダーの問題について子どもに何か伝えようとしたとき、本は、多角的にいろんな方向からそれに光をあてる事ができる。一つだけの意見しか知らないと、その知識でのみ判断するようになってしまう。子どもたちには、本を通していろんな可能性を知った上で、物事を考えられる人になって欲しいと思います。その状況は人格としてとても豊かなことであるし、彼らがこれだけ未来が読みにくい時代をサバイブしていくためには、すごく必要な筋力だと個人的には思っています。

S : なるほど。それは本当に重要な視点ですね。
小学生くらいにもなると、本好きな子は自分で図書室や図書館にいって好きな本を選ぶようになります。でも最初は親が選んであげますよね?きっかけを与えるというか。
その時に注意しなければいけないことなど、何かアドバイスはありますか?

H:親が「自分で読んで楽しい本」を渡すことです。実は、「こども本の森」の選書の裏テーマは「子どもを子ども扱いしない」っていうことなんです。サヱグサさんの「GROW WITH BOOKS」でも同じです。つまり、本格的なアートブックやファッションの写真集でも、子どもなりに感じるものはある。子どもにわかりやすいものも置くんですが、その一方で大人が読めるくらいの歯応えのあるものもちゃんと用意する。

例えば、ウルトラ怪獣の本も、0歳とか1.2歳の子向けのボードブックから、円谷プロが50周年で出版した『円谷プロ全怪獣図鑑』までが置いてある。小さい子でも興味があれば、砂漠が水を吸い込むように本気で何百体というウルトラマンや怪獣を全部覚える少年とかいるんです。

さらに面白いのが、その分厚い円谷プロの図鑑をお父さんが子どもと一緒にそれは楽しそうに読んでいるんです。親が集中して楽しそうに読んでいると、それを見た子どもが「あ、ここでこんな風に本を読んでいる事って楽しいこと、いいことなんだ」と、本を読む行為自体がその子の中でどんどん肯定される。親が「つまらない」と思っているものを子どもに差し出しても、そういう風にはなりません。だとしたら、子ども向けじゃなくていいから、自分が面白いと思えるようなテーマをとにかく共有する、親子で公平にシェアするという姿勢が重要なんじゃないかと思います。

S : そういう体験の中から、だんだん自分の好みとか興味があるものが決まってくる。その前段階で「読む」という行為が子どもの中で肯定されるっていう事が、とっても大事なんですね。

H:結局、親が何かを伝えるっていう時には、自分の中をいったん通って「これおもしろいな、すごいな」と感じたものを伝えるのが一番なのじゃないでしょうか。

S : 感性の共有ですね。昨今、先進国は、日本は特に、少子化、核家族化が進んでいます。昔は、両親が忙しい時でも、おじいちゃん、おばあちゃんを通して何かしらの教えや気づきを受け取る機会がありました。時には隣のおじさんに、果物をとったりして叱られることもあった。そんなのも学びでしたよね。そういう身近な大人との関わりが希薄になってしまっている傾向にあるんですよね。
そういう中で、幅さんのおっしゃる通り、子どもの成長にとって「本」というのは非常に重要な体験のひとつです。でも、なかなか時間をかけて本を選んであげることができない、先ほど出たような時間の共有も難しくなってしまっている。そんなご両親を、サヱグサがサポートしてあげられるとすごくいいなと思っています。

H:そうですね、読書って、没入してその中身を理解するのに時を要するので、これだけ時間の奪い合いが激しいと、本を選んであげる時間そのものが足りない方が多いでしょうね。30秒の映像をみて面白いとか、そういうのとは違うファクターで動くことになりますからね。

実は、そんな今だからこそ、読書の「ジム化」みたいなものも進むと思っています。
腹筋・背筋を鍛えるのって家でもできるし、近所を走ればいいことなのに、わざわざ会費を払ってジムに通って体を鍛える。あれって結局、環境設備が整っている事はもちろんなんですけど、「毎週土曜日の午前中」というような時間確保の意味が一番大きいのではないかって思うんです。
コロナ禍にあって、「紙の本」が意外に悪くないって再度気づいた人が多いのですが、少しずつ日常に戻りつつある今、うれしい反面、また本を読む時間がなくなってしまい、逆に「本を読む時間をどう確保するのか」みたいなことにすごく意識的になっていると思います。

S : 時間を確保するための場作りってすごく大切かもしれないですね。

H:それなので、人が本を読みたくなるような環境、「ここで90分集中しよう」って思えるような場所を作りたいと考えて、どこかに私設図書館を建てようと計画しています。

先日、京都の西側にある正伝寺に伺った時、デヴィッド・ボウイも絶賛したという東の山をのぞむ素晴らしい枯山水のお庭を拝見しました。その時、「ここの本殿に、ドナルド・ジャッド作品みたいに整然と本と書架が置いてあったら、人は本を読むな」って。庭をみるのも、読書と同じ自分と向き合う行為。こんな風に、携帯の電源を切って日常のがやがやとした慌ただしさとは違った時間を流せる場所をつくったら、本を読むかもしれないと。

ちょっといつもと違う、背筋が伸びて、清涼な空気というか、そんな場所が存在するのであれば、人は90分でも集中して読書に臨めるのではないかっていうのと、「読書のジム化」のイメージが合わさって、私設図書館を思いついたんです。

S : それはいいですね。行ってみたい。本を読もうというスイッチを入れるのはなかなか大変。それでも家の中でって思ったときですら場所を選びますからね。

H:そう!どこなら気持ちがいいかとか、風の抜けとか、光の挿し方とか。

S : 「本」ってそういう存在。だから、場作りってすごく重要なんですね。大人だったら、家の中に、本を読むための椅子があるだけだって、ずいぶんとマインドって変わりますよね。

H:確かに、自分にとって気持ちのいい椅子が一脚あるかないかでも違いますね。家って皆ですごす場所。その中に、「わたくし」という一人の人間がそれぞれ、気持ちの良い距離というものを測り合っているみたいなところもありますから。

本を読むモチベーションを場・環境がつくるっていうことも十二分にあると思っています。

なので、サヱグサさんがこれからやっていこうとすることを、普段なら踏み出せない一歩をどうやって踏み出させるかを考える仕事と捉えるのだったら、「家の中では、なんだかちょっと本を読む気持ちにならないな〜」みたいな子どもたちの、モチベーションを喚起するための環境をどう整えるのかっていうのはすごく重要だと思います。

それと、先ほどの正伝寺の庭を見た時に思ったのは、やっぱり自然って偉大だなと。風とか、空とか、遠くにみえる山とか木々とか、ああいうものが目の前に見えていと、やっぱり人間は自然には敵わないんだなっていう事がわかるんですよ。ウィルスにかぎらず、大きな自然の流れとか、生きていくものがいつか死ぬこととか、そういうもには抗えず敵わないなという事がすごくわかる。

特に正伝寺の場合は、綺麗に整えられた枯山水のミニマムな感じと、遠くにみえる街並みと山々の対比っていうのがすごく良かったと思うのですけど、ああいうマインドの時って人は少し謙虚になるし、謙虚になるっていうことは何かっていうと学ぼうと思っているということなので、そういうタイミングの時こそ、本がスーッと差し出されると良いっていうか。読め読めっていうプロジェクトではなくて、気付いたら読んでいたっていうくらいの差し出し方が出来ると理想的ですね。

S : すっと差し出せる環境、ですね。場作りを幅さん一緒にというのは確かにワクワクしますね。

H:だから、サヱグサさんとプロジェクトをやる時には、「今週はどこそこの山に行って、みんなで景色をみながら本を読もう」みたいに、別のアクティビティと本が合致しているとか、場所指定というか、サイトスペシフィックに、「この場所でこれを読むと心に響かないか」みたいなそういう読み方、本の差し出し方を提供したいなと。

S : まさに僕が今イメージしている、子どもの気づきにつながるexperience提供っていうのは、そういうことなんですよね。素晴らしい自然や、さきほどのお寺のような場所でね、ひとりで30分本を読むっていう体験をしたら、きっとその子にとって「本」への意識が変わるでしょうね。

H:「本」の入り方が変わってきます。自分の中への吸収が違ってきます。

S : 幅さんにはぜひ、そういう場をみつけていただいて、ツアーで子どもたちを連れていってあげたい。

H:いいですよ!
一方で、それは街だって出来るかもしれない。この銀座の中で、例えば、大きなビルに囲まれた、ポツンとした小さな物件、仮にそういう場所があったら、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』を読んでみようとかね。
本を手に、実際にビルを眺めた時に子どもたちは何を感じるのか。

名作だから読みなさいっていうのではなくて、「ここでこそ」という場所で差し出された本は、響くものが違うのではないかと思います。

S : そうですね。自然の中で読ませたいと思う本と、こういう街でこそ感じ取れる何かがある本もある。差し出したいシチュエーションが本の数だけあるかもしれませんね。

H:本当に、重要なのは「記憶の残り方」ですからね。本であれ、音楽であれ、その子に「どうささるか」が重要です。

これだけ外部記憶とかが充実してくると、「生き字引的な人間は必要なくなる」なんて言われていたけれど、検索ばかりで知識を得ている人って、残念ながら代替可能な主体しか残らない。その人でなくても検索できることしか言えない残念なことになってしまっています。

重要なのは、「自分らしく」あるという事です。人間なんて最初は0からできているので、「らしさ」みたいなものはDNA以外ないのだけど、そこから一歩一歩昇華して自分を形作っていくためには、誰もが検索出来る外部記憶から得たものではない、自分の中にずっと残り続ける何かこうささって抜けないものがどれだけあるかです。そうやって「らしさ」が決まります。

S : 子どもの頃の体験は、人生に大きな影響を与える可能性がありますね。
例えばバッハのバイオリンソナタ、色々な聴き方があります。CDで聴く、ネットで聴く、大きなホールで聴く、演奏者をすぐ目の前にして聴く。そうなると同じ奏者のものでも、「ささり方」が違うはずですね。音楽だけでなく、本でも、建築でも食でも、子どもによって「ささり方」も「ささるもの」も違うから、より多くのいろんな種類の「忘れないもの」を用意してあげて、体験してもらいたい。とにかく、準備してあげたいんですよね。より多くの体験の場を。

ところで、「さす」って何か他の言葉はないですか?(笑)

H:「さす」ってネガティブにとられるかもしれないけれど、僕は「良い棘」ってあると思っています。日常が強弱なく、安定しているっていうのは、生命が望むことだから、ご家庭がそういう環境であるのは問題ないことなのですが、サヱグサさんくらいの、ある意味ちょっとご家庭とは違った距離の場所が、いい意味でヒリヒリすること、「良い棘」を準備しておいて、それを子どもたちの「心にさす」って、すごくいい事だと思います。

AIが人間を凌駕する云々って言いますけど、やはり我々が身体を意識するってことはすごく重要なことだと思うし、意識する以上そういうことにはならないと思っています。常にネットにアクセスし、体を動かさなくても社会が回る。そんな世の中では身体に対しての意識がどんどん希薄になる。でも、「いや、やっぱり動くでしょ人間って。動けば汗かくでしょ。」とフィジカルな様相を忘れない。今、子どもたちがあれだけダンスを必死に楽しくやっているのって、まさにそれなんじゃないかな。

だから「さす」っていう言葉は一見過激かもしれないけれど、「良い棘をさす」っていうのはフィジカルに訴えかける体験を提供していくという言葉としてはそんなに悪くないと思います。ちょっと痛いことって忘れないですしね。

S : なるほどね。良い棘をさす。違和感なくなりました。日常では体験できない、少し思い切った機会を作ってあげないと「ささらない」っていうのは、今まで色々なワークショプをやってきて少し感じていました。

H:良かったね、上手にできたね、だけだとダメで、僕は実は痛みとか、ちょっとしたストレスって、ある意味必要かなと。つまり、最近はコミュニケーション能力を育てると言って、小学校からディベートや語学を学ばせる動きが盛んですけど、コミュニケーションの技術、技ばかり教えても、結局、「伝えたいもの」がないとコミュニケーションにはならない。

伝えたいものをどう育てるのかっていったら、「伝わらないな」っていうストレス体験しかないと思っているんです。僕が初めて海外に行った時に、バーガーキングでなぜか欲しかったバーガーが出てこない。そしたら覚えるしかない(笑)。  その伝わらないストレスとか痛みとか、悲しみとか、そういったものが伝えたいものを育んでいく。そう言う意味での、ちょっとの痛みというか、もちろん、精神的外傷ほどの痛みはよくありませんが、ちょっとのチクリとするようなことすら、極力排除していこうというような家庭や教育の現場も多い。

それをあえて、ちょっと良い意味での刺激として提供するような場所とかサービスとして、サヱグサさんがこれからやろうとしている事が機能すると面白いと思いますね。

S : そうありたいなと思います。いろいろ模索しながらになりますが、幅さんをはじめ、各界で、本質的な、本物を提供されている方達と、パートナーとして、子どもたちにとって「良い棘」、experienceの機会をつくれるような、ハブというかブランドになって行けたらいいなと思っています。

このコロナ禍っていうのは、子どもたちにはリアルな体験をさせたいと思っている我々にとっては非常に残念な状況です。でもいずれこの状況も開けてくると思うので、そうしたらまた、色々なリアル体験の提供をできたらいいと思います。